嫌な予感はしていた。
 確かに、まあ、それぐらいのこと、彼ならしでかすだろうな、と思ってはいた。
 しかし……
「――ふぅ、間に合ったぁ!」
「――信号のとこの電柱にさ、サングラスにマスクつけて、挙動不審なオヤジがいてさ」
「――ちょ、おまえ、早弁かよ」
「――もうちょっと、余裕持って来なさいよ」
「――あれ、竹島は? まだ来てねえの?」
「――えー!? ヤバイよそれ。変質者じゃん」
「――仕方ないだろ、朝練キツかったんだから」
「――いいじゃん。斉藤まだだし」
「――遅刻? 珍しいね」
「――でしょ? あたしもそう思ったからさ、背後から忍び寄って股間蹴り上げてやった」
「――にしても早すぎるだろ。昼飯どうすんの?」
「――マユそれやりすぎ」
「…………ふぅ」
 喧騒に紛れるようにして、溜め息をひとつ吐く。
 時計を見ると時刻は8時半を少し回ったところ。本来なら朝のHRが始まっている時刻。しかしながら、担任が教室に来なければ、それは始まらない。
 それゆえのこの騒音。他のクラスの担任たちは、何を騒いでいるのかと思っているかもしれない。マンガやアニメなら、「みんな、静かにしなさいよ」とかいう委員長キャラがいることが多いけれど、現実にはそういう人ってのは少ない。まあ、教師がいない教室なんて、言うなれば管理者のいない匿名BBSみたいなものだ。
「…………はぁ」
「どうした梢。さっきから溜め息ばかり」
と、再度溜め息を吐いたタイミングで、後ろの席から声がかかる。ゆっくりと右から……自分の左後ろの席を見ないように振り返る。というか、そう意識している時点で、もうどうでもいいことなのだが。
 後ろの席では予想した通りというか、楽しげに、幼馴染がこちらを見ていた。
「良くないぞ。溜め息を1つつくと、あれだ……不幸が逃げるぞ」
「……そう」
 それは願ったり叶ったりのような気もしたが、あまり指摘する気になれなかった。
「……本当に元気が無いな。誰かに苛められたか?」
「ある意味そうかもね……」
「それはご苦労なことだ。梢を苛めるとか、暇な奴だな。はっはっ」
 皮肉が通じないのは当然だが、それを差し引いても、物凄い上機嫌である。まあ、女の子大好きな彼のことだ。やる気満々で、事前の準備は完璧なのだろう。
 そして、クラスのほかの連中は、まだ、女の子が転校してくることを知らない。そういう意味で彼は一歩も二歩もリードしているのだから。
「梢、準備はできているか」
「……友達になればいいんだよね」
「違う。親友だ。なに、簡単なことだろう。新しい学校で不安いっぱいの転校生だ。付け入る隙はいくらでもあるからな」
「……」
「せっかく、竹島に転校してもらったんだ。奴の犠牲を無駄にしてはいけない」
と、左の席を見る総一。
 やっぱりというかなんというか……彼が来ていないのは、総一の仕業だったようだ。可哀想と言うほか無い……
 と――
「あ、斉藤来たよっ!」
廊下側の席の女子生徒の一声が教室に響く。それを合図に教室内の喋り声は小さくなり、代わりに席に戻る生徒の足音や、椅子を引く音などが騒音を成す。
 そして、それらの音が静まってきたところで、教室の前方のドアがガラッと開かれた。
「はい、おはよう、皆。遅くなって悪かった」
 姿を現したのは、まあ、言うまでも無く、担任の斉藤教諭。転校生はと思い、彼が後ろ手に閉めるドアの隙間から廊下を見てみるが、それらしい姿を捉えることはできなかった。
「えーと、出席をとる前に、連絡がふたつ。一つ目は……今朝、竹島の家から、電話があってな、なんか急に転校することになったらしい」
「……」
 ざわつくクラスメイトと、ざわつかない2人。
 教諭の言い方が曖昧なのは、本人的に微妙に納得できていないからなのだろう。それはそうだ。犯人が後ろの席の幼馴染なら、転校の連絡は一方的なものだったはずだから。
「まあ、急な話だったんで、朝からどたばたしてな。それで、教室に来るのが遅くなったわけだ。ま、次の授業、俺の国語だから問題なかろ」
 ざわざわと教諭が来る前のような騒がしさに戻ろうとしている教室。まあ、それも仕方がないことかと、半分諦めたように、斉藤は続ける。
「で、実は急なこの転校の理由とか聞けなかったんだが……誰か心当たりのある奴、いるか?」
「はい、先生!」
と、声を張り上げたのは後ろの席の総一だった。
「えーと……他にいないかー?」
「ちょっと! 聞いてくれないんすか!?」
「ぁー、後で聞いてやるから……」
 なんというか、賢明な判断である。この場で総一の口から出てくるのは、捏造話でしかあり得ないのだから。
「他いないよな? まあ、だいたい見当はついたからもういいんだけど」
 当然ながら、このタイミングで挙手する者はいなかった。
 そして、やや機嫌を損ねていた総一だが、次の斉藤の言葉で、再びにやつきを含む表情に変わった。
「ん。じゃあ、二つ目の連絡」
「……!」
「竹島と入れ替わりに、という言い方はまあどうかと思うが……転校生だ」
 そして、一気にざわめきだす教室。それは、クラスの大半が、友が転校していくのは寂しいことだが、新しいクラスメイトが現れるのは、もっと嬉しい……とかそんな生真面目な感情ではなく、「美少女転校生か!?」とか「カッコイイ男の子だといいな……」などと勝手な願望を抱いたが故の、騒がしさだったのだが。
 それに対し、斉藤の言葉を黙して聞きながら、梢は強張っていた。総一によると女の子らしいが、どんな子なのかまでは知らない。
 一方的で、よこしまな理由とはいえ、親友になれと総一に頼まれた相手だ。できることなら、友達になりたい。
(おとなしそうで、話しかけやすそうな女の子でありますように……!)
 机の下で手を組みながら、そう祈る梢。
「……よし、入って来い!」
 斉藤のその声で、先ほど斉藤が入ってきたドアがゆっくりと開いてゆく。
「…………」
「…………」
 そして、ドアが完全に開き、ゆっくりとその人は梢たちの前に姿を見せた。
「…………え?」
「なっ……!?」

 まあ……これが、その人との出会いであった。
 こういう初対面でなければ――
 総一が女の子の転校生が来るとか言い出さなかったり、隣の席の男の子を転校扱いさせたりしなければ――
 もしかしたら、その人たちとの関係も、変わっていたのかもしれない。まあ、変わらなかったかもしれないが。
 それでも……木崎梢と神山総一はこんな形で、彼と――
 双海彰吾という青年と、出会ってしまったのだ。