他人を理解するというのは、難しい。例え、それが肉親であっても、異なる思考、異なる嗜好、異なる立場に、異なる感覚を持っている以上、不理解が生じる。己自身を知り尽くすことさえ叶わぬ人類種が、他者を理解しつくそうなどというのは、愚か過ぎて、ヘソで茶が沸くというもの。
そうだ。他者など理解できなくて当然なのだ。
しかし、かといって、その状態を漫然と無視し続けるのは、良くないことである。他者を理解するための努力を怠ることは、社会的な意味での、孤立を意味する。周りの島に架け橋を作ろうとすらしない孤独な離れ小島は、自給自足を要求される。一見、他に依存しない、見事な生き方に見えるが、言い換えれば、これは自己完結である。他への干渉、他からの干渉、そのいずれも絶たれた人生を、果たしてどれだけの人間が歩みたいと思うだろう?
少なくとも、双海彰吾はそういう人生は嫌だと思える人間である。他を理解し、他に理解されるよう、基本的には努力をする。
だから……
「あんたの下着を貸して欲しいのよ」
突然部屋にやってきては、そんなわけのわからないことをほざき出した姉に対しても、一瞬頭を抱えそうになったが、とりあえず、無考えに「こいつは理解できない!」と決め付けることは避けることにした。
まあ、ひとまず、話をするべきだろう……
「ぁー、悪い。もしかしたら、聞き間違えたかもしれない……今何て言った?」
まずは聞き間違えという可能性に縋ってみる。
「あ、ごめん。聞き取りづらかった? あんたの下着を貸してくれ、って言ったの」
「……」
真顔で返された。これで、彼女の言い間違いという可能性も消える。
「えっと……本気?」
「え? 何が?」
「…………むぅ」
「……どうしたの?」
冗談どころか、自分の発言に違和感すら感じていないらしい。まあ、そうだろうとは思っていたが。
あとは、転校初日に弟の下着を借りるという行為に、海より深く山より高い理由があるかもしれない、と信じるしかないわけだが……
「えっと……俺の下着、何に使う気?」
「何って……それは……」
「……」
「……普通、そういうこと聞く?」
「いや待て待て!」
唐突に、何やら頬を赤らめ出した渚。予想外の展開というか、一気に貸すべきでなさそうな雰囲気になってきた。いやまあ、それ以前の問題でもあるのだが。
「何か、変なことに使うのか!?」
「へ、変なことには使わないわよ!」
「じゃあ、何に使うんだよ!」
「それは、だから……」
「だから……?」
「…………」
やはり口をつぐむ渚。どういうつもりなのか知らないが……
「あのな、そんな何に使うかも言えないような――」
「……ていっ」
「――っ!?」
軽い掛け声と共に姉の左手が彰吾の鳩尾に当てられていた。と、それに気付いたときには手遅れだった。
一瞬の浮遊感の後、派手な音を立てながら、壁際まで転がっていく彰吾。
「あら? 受身取られた……」
「や、やかまし、ケホッケホッ……」
「でもまあ、一応クリーンヒットしたし、すぐに身動きはできないでしょ」
鼻を鳴らす渚。まあ、今まで何百回も吹き飛ばされてきた身である。受身とかもとれるようになってくるものだ。しかし、反論できないのも事実。
彼女が幼少の頃から学んできたらしい、“錦流なんとか”という格闘術。姉弟で対立する度に持ち出され、いつも渚を勝利に導く要因である。本当に格闘術なのかと問いたいくらい、意味不明な攻撃が多いのだが、未だに勝機を見出したことすらない彰吾だった。
(暴力に訴えるとか、反則だろ……)
と、毎回ながらに思うも、やはり男としてというか、年上とはいえ女に力でねじ伏せられるのを、言の葉で封じようというのは、良くない気がしていた。
「確か箪笥の2段目よね〜」
「……くっ」
迷いもせず箪笥を開く渚。そして、数秒ほど物色した後、
「じゃ、一週間以内には返すから」
と言いながら、部屋を出て行く姉を、彰吾は鳩尾を抑えながら見ていることしか出来なかった。
「――くん? 双海彰吾くん?」
「え?」
と、呼びかけに気付いて顔を上げると、中年男性の心配そうな顔。
「お待たせしたね」
どうやら、彰吾が昨夜のことを思い出している間に、急な転校生とやらのゴタゴタが、とりあえず一段落したようだ。
「……」
斉藤と言ったか……出席簿と国語の教科書――授業の用意だろう――を片手に「それじゃ、教室に行こうか」などと微笑みながら言う中年教員はなんというか、落ち着きはらっていた。不測の事態でも、転校生には落ち着いて応対するあたり、ベテラン教諭だな……などと、無意識に分析してしまうのは、転校回数の多さ故だろうか。色んな学校で、色んな教師を見てきた彰吾は、ほんの少し言葉を交わすだけでその人物の教師としての器のようなものが、わかるようになっていた。否、気づいてしまうようになっていた、という方が正しいか。
例えば……
「――緊張してる?」
教室に向かう廊下にて、やや後ろを歩く彰吾に向かって話しかけてくる斉藤。
(今条先生も渚に同じこと聞いてたな……)
などと思いながら、姉と同じように「いえ、馴れてますから」と返そうとしたが、それより先に斉藤が続けた。
「愚問か……落ち着いてるよね」
「え……?」
「何回も転校したことがあるのかな。色んなところを興味深そうに見てるよね。それも、ソワソワしているわけでもなく」
「……」
正直なところ、驚いていた。こちらのことをよく観察している。
「どう? この学園は気に入りそう?」
「ええ。良い雰囲気の学び舎だと思いますよ。仰るとおり今まで色んな学校を経験してきた、私の目から見ても。姉も同じようなこと言ってましたし」
「それは良かった」
無難な優等生的(?)な返答に、教諭は満足したらしかった。
まあ、姉の発言と彰吾のそれとはニュアンスの違いがあるやもしれない、ということは黙っておくことにした。
「しかし、学園の雰囲気が良くても、生徒たちが皆、そうとは限らないんだよね……」
「……?」
「中には……まあ、いわゆる問題児ってやつが混じっているもんだ」
言いながら、溜め息をつく教諭。
この学校は、見てくれや雰囲気は良いが、実際には厄介な輩が多い――そう言いたいのだろうか。この後、経験するであろう現実を受け止めろと?
「君がそういう輩に毒され、染まっていかないよう祈ってるよ。勿論、それを防ぎ、逆に彼らを正しく染め直していくのが教師の本分なんだけどね」
「……」
「……いや、悪い悪い。君にとっては余計な話だった。君は君なりにこの学園での生活を満喫するといい」
「は、はぁ……」
どう応じればよいものかわからず、とりあえず相槌だけ打っておく。何が言いたかったのかわからないが、もしかして、この斉藤という教師が持つ“教師観”のようなものに関わることとかだろうか。
(受け持ってるクラスに、問題児でもいるのかもしれないな)
などと推察して、彼の言葉を胸中で反芻してみる。だとしたら、この教師も、苦労しているんだろうなあ、と苦笑しながら彰吾は思った。
とはいえ、まあ、それこそ、これは楽観的な想像だった。しかし、もしその予測が当たっていたら……そして、運悪くその問題児と関わりあうようになってしまったら……彰吾は家でも学校でも厄介者の相手をしなければならない、ということになる。この時の彰吾は、そこまで考えが及んでいなかったのだった……